カーニバルライフなブログ

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気づいたことを綴っています。

2019.10.17山下の想いや気づきあれこれ

台東区の避難所問題から思うこと

 

先日の台風19号で被災された方に心からお見舞いを申し上げますとともに、早期の復興を心より願います。

そうした台風の最中、東京都台東区が、ホームレスの方(住所不特定の方)の自主避難所の利用を断っていたことが話題になっています。
このことについて、ネットでは賛否両論の意見が溢れています。

今回は、この議論について思うことを書いてみました。

 

あるサイトでこうした意見の対立が起こっていました。

台東区への否定的な意見
・人命以上に優先するものはない
・人の命は対等である。

台東区への肯定的な意見
・密集した避難所の中でホームレスの人のにおいに耐えられるのか?
・自分の子どもを衛生上不安な人の隣に寝かせることができるのか?

 

ネット上では、一人一人が自分の主張をしているだけなので、議論は平行線のまま交わることはありません。
(そもそも、議論とは呼べないかもしれません)

こうした対立は、なぜ起こるのでしょうか?

それは、台東区の対応に賛成か反対かの2つの軸で議論しているからではないでしょうか?

でも、こうした問題を考えるにあたっては、外してはいけない視点があるのではないでしょうか?

 

何より大切なのは、「自分はどんな社会で生きていたいか?」という視点だと私は思います。

 

私は台東区への肯定的な意見を読んだ時、
確かに、私は、お風呂に何日も入っていない人のにおいはとても苦手なので、隣で寝ると現実的に体調が悪くなるかもしれない。
それに衛生面の不安もあるかもしれない。
と思いました。

でも、だからと言って、私は、そうした人たちが川に流されてもしょうがないと思える社会で生きたいとは思いません。

私は、少なくとも、みんなが助かる方法について、みんなで知恵を出し合う社会で生きたいと思います。

 

これは私の考えであって、もちろん別の考えも存在するでしょう。
公共の問題については、全ての人が納得できるベストな答えは存在しません。ベターな答えを探すしかありません。

そして「自分はどんな社会で生きていたいか?」という問いからしか、ベターな答えには辿り着けないと私は思います。

 

台東区への肯定的な意見を言っている人たちも、「人が川に流されればいい」とは思っていないはずです。

「自分はどんな社会で生きていたいか?」という問いを持てば、避難所のあり方について、いろんな工夫ができるのではないでしょうか?
(こうした対話をするには、ネットではなく、顔を突き合わす必要があるとも思います)

 

東日本大震災の当時、私は仕事で毎日終電で帰るような日々が数カ月続いていました。
それでも仕事が終わらず心に余裕がありませんでした。
そんな時、テレビで車が流されている映像を見ながら、私は「今は仕事に集中しよう」と思ってしまいました。
私は、そのことを今でもとても後悔しています。

人は心に余裕がなくなると、自分のことしか考えられなくなります。
それは仕方がないことだと思います。生物としての生存本能ゆえのことだと思います。

 

でも、だからこそ、「自分は、私たちは、どんな社会に住みたいのか」という問いを持ち続けることが大事ではないでしょうか?

 

今回は、私の個人的な想いを書いてみました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

ー誰もが主役になれるー

自由な生き方への扉をひらくコーチ
山下比佐暢

 


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